プロフィール

護国神社にて家族写真

ご訪問ありがとうございます♪

当ブログの管理人の「まるやま さとし」の詳細プロフィールです。

ちょっと長めです。
まずは目次眺めてもらって、気になるところから読んで見てください。

1981年2月13日生まれ

生まれは長野県の松本市、山に囲まれた土地の山の麓、ちょっとした観光地で生まれました。

松本市の中町の風景

とても平和な公立の小中学校を卒業。
高校は一応、進学校に進み、部活に(勉強に?)励んでいました。
高校生の頃は7回連続でフラれてもめげないが、彼女は全く出来ない恋多き少年(笑)
将来は借金で苦しむことはまだ全く想像もしていない幸せな学生生活を送っておりました。

父親の経営失敗

我が家は自営業をやっていたのですが、高校2年生の頃父親の仕事がなくなり、家業をたたむことに。
その頃から母親と父親の夫婦仲が悪くなってきて、喧嘩ばかりの日々になりました。
それまでは比較的、仲の良い夫婦で私が小学校5年生のときに二人目の妹(年の差11歳)も出来たくらいです(笑)

子供とは不思議なもので親同士、夫婦仲が悪くなると家に寄り付かなくなるのか、段々と親ともあまり喋らなくなり、友達の家を転々とするようになっていきました。
が、学校の試験で0点の連発、、、、
流石に焦りはじめ、友達の家への長期滞在はやめました(笑)

大学受験で自信が付いた

大学生時代 ロン毛ちょんまげ写真

↑「学生証の証明写真」

そんな高校生活だったため、まともに合格するはずも無く、あえなく浪人。
高校卒業時の偏差値は数学が「18」という奇跡的な数字でした。
卒業するにあたっても追試を受け、なんとか、「カンニング」という技術的な手段を使い、卒業をさせてもらいました。

浪人中はもうひたすら勉強をしました。
その時に、一緒に頑張った仲間は今でも仲良く飲みに出たりしています。
ただ、偏った勉強の仕方をしていたせいか、数学がとても得意になり、センター試験では、満点を取り、一応全国1位となりました。
他の教科はどうしようもなく、国語や英語は目も当てられない結果に。

志望校には合格できませんでしたが、滑り止めの大学には合格出来ました。

その時の経験から、「俺もやれば出来る子」という自信が付いたと思います。
その自信で痛い目を見ることも。。。。

大学時代に一大事。。。

大学時代ドレッド 部屋にて

↑「大学3年のお上りさん」

大学時代に東京に出て晴れて「お上りさん」になれました。
上京してすぐに現在の妻と出会い、以後長い付き合いになっていきます(笑)
親からの仕送りももらわず、奨学金とアルバイトで貧乏学生をやっていました。
ただ、大好きだったバイクに乗っていたのですが、それが後々の人生を狂わすことに。。。。

人生を180度変える事件(バイクと共に)

大学4年生のときに人生を大きく左右する一大事が。。。。
現在の妻、当時の彼女は仕事をしていたので、迎えに行った帰りに、事故を起こしました。。。。
妻を後ろに乗せた状態で。無保険で。相手もバイク。
大事故となり、相手は両足骨折。妻は鎖骨と手の甲の骨折。
私は、無傷(手のひらを擦りむいたくらい)。。。。
相手も無保険だったため、その後は大変なことに。。。。

無保険事故の怖さを身をもって知ることに。

無保険同士のため、結局弁護士を入れて法定で話し合うことに。
話し合いも物凄いストレスだったため、全身に蕁麻疹を発症しながら、大学に通っていました。
その時の弁護士の選定ミス(相手は日本でも指折り。こちらは交通事故未経験弁護士)
言われるがままの人身事故の罰金の支払い。。。。
色々が重なり、数年後2000万越えの借金を背負うことに。

大学も無事卒業し、社会人へ

新卒会社での飲み会ピース

↑「社会人1年目、飲み会でも大はしゃぎ」

事故の決着は未だにつかないまま時は経ち、私も卒業し、就職をしました。
一部上場企業の自動車関連のメーカーで働くことができました。
事故のおかげで、多大な賠償金が予想されていたため、とにかく稼がねばと、物凄い仕事をしていました。
付いた先輩が狂ったように仕事をする人。
必死でついていこうと、朝の5時まで働いて、次の日も朝の9時(家に帰れる時間が4時間)というのを度々。それ以外も0時回るのは普通。月の残業は170前後に、、、
残業は月に40時間までしかつかないので、残りの130時間くらいのサービス残業。
そんな異常な労働をこなした結果、成果も得ることが出来ました。
それも、受験時代につけた、「俺もやれば出来る子」という自信があったおかげ。

念願の海外赴任(給料激増♪)

新卒会社 出向前の送別会挨拶

↑「赴任時の送別会」

付いていた先輩が海外赴任組だったこともあり、入社3年目には海外に赴任できることが決まりました。
諸先輩を差し置いていかせてもらったのは、本当に頑張った努力と、運があったと思います。
海外赴任をすると、日本の給料と現地の給料ともらえて、現地では家賃も会社持ち。
相当な高給取りになります。
年収で言ったら相当もらいました(笑)
海外赴任ということで、言葉なんかも苦労しましたが、25歳でこの給料もらえるっていうのに浮かれてもいました。
事故の賠償金もなんとかなるんじゃないだろうかと思えてましたね。

当時は自動車の世界的な売れ行きも凄まじく、アメリカはデトロイト、自動車の街に赴任することに。
受験勉強以外全く英語を勉強などしてきませんし、受験のときの英語もとてもひどいものでした。
ただ、音楽は洋楽が好きで色々聞いていてそこで英語に触れ合ってました(笑)
英語には苦労し、赴任後はどこに行くにも辞書を持ち歩いてました。
ただ、数ヶ月もすれば慣れも出てきてある程度スムーズにコミュニケーションも取れるように。
日本の会社の空手部にも所属していたので、アメリカでも空手をやったりしてました。

赴任をきっかけに結婚を

高井戸グリーングロウハウスの前で妻と

↑「赴任前に妻と。この日にプロポーズ」

プライベートでは、上京した19の頃から付き合っていた今の妻とも、とんでもない倦怠期でしたが、海外赴任をきっかけに結婚することに。
ちなみに、私の借りたアパートに同棲していたのですが、半端のない倦怠期のため自分のアパートを追い出され、会社の寮に入っていました(笑)
そんな倦怠期も海外赴任という大きな刺激が緩和してくれたんですかね(笑)

待望の長男誕生

生まれたばかりの晃汰と昼寝中

↑「子供と呑気に今で昼寝」

徐々にアメリカの生活にも慣れてきて、半年ほどたった頃、子供を授かることが出来ました。
赴任が決まり、結婚し、旅立つまでの間に、子供ができており、このタイミングで出産することに。
海外での出産は先輩が何人も経験しているため、アドバイスは色々もらえましたが、妻としては親もいない中での出産。妊娠中も仕事のため病院には中々付き添えず。
重いお腹を抱えて、通訳のいる少し遠い病院まで一人で通院して。
よく実家に帰って出産とは聞きますが、ここまで一人で出産した女性を知りません。
よく頑張ってくれたなと、本当に感謝しかありません。

また、女性の強さ、母の強さ、覚悟を決める速さ、腹のくくり具合のすごさ、、、、、
女の人の凄さを間近で体感しました。。。

新たな家族も迎え、楽しい海外赴任も社会の荒波によって

生まれて4ヶ月の晃汰とハロウィーン

当時は自動車業界の景気も良かったんですが、それもつかの間。
リーマン・ブラザーズ・ホールディングスの破綻。いわゆる「リーマンショック」が起こりました。
アメリカで車が本当に売れなくなり、デトロイトにあった部品メーカーもどんどん景気が悪くなり、ストライキを起こしている光景をよく見るように。
やたら寒いデトロイトの冬に外でドラム缶に火をくべながらストライキをしている現地人達。
テレビの中でしか見たこと無いような光景が目の前に有りました。

自分の会社も例に漏れず不景気の煽りを受け、結果わずか一年で日本に帰国することに。
アメリカでの高給取りもここまで。

日本に帰国後迷走が始まります。

日本に帰国することになり、リーマンショックの影響で週休3日になることも有りました。お陰で給料も約半分に。

その頃事故の話はというと。
アメリカに言っている頃は弁護士が代理で話を勧めてくれていました。
が、なんと相手方の言われるがままにこちらの賠償金額が3000万を上回る程に、、、、
さすが、交通事故を担当したことが無い弁護士、、、、

事故の賠償請求の金額、、、、2000万円

帰国後に慌てて代わりの弁護士を探して、とある保険会社の顧問を務めるような腕利きを紹介してもらいました。
奇跡の大逆転を期待して弁護士交代をしたのですが、時すでに遅し。
1000万まで減らすことはできず、2000万ほどの賠償ということで折り合いをつけることに。
しかも条件として、

  • 頭金として200万を先に入れること。
  • 10年で払い切ること。

2000万という家を買うほどの金額は35年ローンなどが、一般的なサラリーマンの支払い方。
それを10年で返済しなければならなくなることに。
家賃の支払いなど、生活をしながら、、、、
頭金の200万はカードローンを組んでなんとか用意しましたが、結局それも借金。
頭金という最初の支払いは借金でクリアし、その時はとても助かりました。
しかし、借金で借金を返すような、最悪の循環の始まりです。

普通じゃ返していけないと思い、稼ぐ手段を模索していく中

多大な支払いが始まりました。
仕事も一生懸命がんばりましたが、生活はめちゃくちゃきつかった。
そんな中、なにか手段は無いかと探しているところに、ネットワークビジネスの話がきて、
「これなら、逆転できる!」
と飛びつきました。
ここでも「俺もやれば出来る子」という自信が出てきました。これが裏目に。。。

月に15万程は稼げるようにはなったのですが、仕入れや、経費で消えていく。
それなのにここでケツに火をつけて一気に行こうと、暴走を始めます。
会社も辞めてしまいネットワーク一本に。
夢を抱いて会社を飛び出しましたが、そんなに急に稼げるはずもなく。
返済は待ってはくれません。焦るばかりで、お金が集まるはずもなく、バイトに明け暮れることに。
結局ネットワークも頭打ちとなり、借金で借金を返すように。
クレジットカードも限度額になり、家賃も滞納してしまい。。。。
とうとうカードも取り上げられ、家も出ていかなければならなくなり、、、、
逃げるように実家のある長野に強制送還。

妻と子供と実家に入り、家族関係ガタガタに

実家の田んぼ前にて子供とステップワゴン

↑「実家の田んぼにて」

実家に戻った頃には、事故の頭金のカードローンもほとんど減らせず、カードの分の借り入れも乗っかっており、2500万にもなろうかというくらい。。。。
そんな中、実家に入ることになりましたが、それまでは小さな実家で父母妹の三人暮らし。
そこに私と妻と子供が突然入ったところでうまくいくはずもなく、嫁さんはピリピリしてるは、母親にはいつ出るのかと詰められるは、、、、、
父親だけは、大変だろうけど頑張れよ。と言ってくれました。
まぁ、そんな状態で子供が健やかに育つはずもなく。
悩んだ結果、なんとかして実家を出て近くのアパートへ。

田舎に戻って、しばらくバイトに明け暮れながら、製造業に戻ることに。
現場での機械加工の仕事につき、油まみれになりながら、残業もやりまくって必死で負債を減らそうとしてました。
それと同時にネットワークもやっていたので、新規を開拓するために、イベントを自分で立ち上げたりして、企画運営などもやったりして。

イベント企画をきっかけに、地元の街コンに誘われることに

2000人の男女を集めて行われる合コンイベントを手伝ってくれと、声をかけられ、ボランティアで参加することに。そこで色々な地元の経営者の人とも知り合えました。
手伝い始めた2年目のこと。そのイベントの発起人の人たちが引退するということで、実行委員長をやってくれと依頼されました。
断ればいいのに、成長するチャンス。と引き受けてしまう。。。。
確かに色々学ぶことは出来ましたが、返済を最優先にする。という事を学ぶべきでした。

街コンの長、セミナー受講、とんでもない道へ

松コンの決起会挨拶

↑「長への就任挨拶」

そこで知り合った主催者の一人の経営者の人から実行委員長やるなら、行ったほうが良いセミナーがあると、自己啓発のセミナーを勧められ、更に借金を重ね受講することに。
それのお陰か、街コンは無事に大成功に終わりました。そんなこともあってか、紹介してくれた経営者から家に来ないかと声をかけられ、セミナー後の無敵感からか、全くの畑違いの飲食店へ転職することに。
セミナー自体はとても良いものでしたが、上手く使われました。

パワハラ、モラハラ、給料未払い

豚ムスコ時代にカウンターにて

↑「飲食店時代。最高に痩せていた(笑)」

全くの経験0からの飲食店。入社前はマネージメントや、経理などの業務をやって欲しい。料理の技術なんかは要求しない。ただ最初だけ現場を手伝って欲しいと言われて入社。
あけてビックリ、そんな事言ったっけ?位の勢いで、猛烈に現場で過酷労働。朝の9時から夜中の1時2時まで。「お前の為だ」と御高尚なお説教を聴かされるために、飲みにつれまわされ。休みなんかも月に1,2回あるか無いか。
何かあればすぐに手が出てきました。スタッフの前でもガンガン殴るから、スタッフドン引き。お陰で耳に内出血が出来て、今ではカチカチに。
ひどいときは朝の6時から夜中の2時まで10日間ぶっ通しで労働。最終日には意識も保てなくなり、会社の移動販売車で事故を起こしてしまう。
廃車になるほどの事故だったが、怪我は一切無し(笑)
最初は無保険車で仕事させられてましたが、さすがに怖すぎると、無理やり入ってもらった保険があったため車のお金は保障されました。
辞めさせてくれと、入社二ヶ月目から言い続けたが、結局一年間ぼろ雑巾のように使われ、給料も4ヵ月半業者への支払い分を立て替えたりしていたので、100万以上の未払いの発生。
廃車になった車のお金も、車を買わずに店舗の移転費用に使い込みをしてました。
何を思ったか、事故したのはお前の責任だから、車代を払えと500万の請求をしてくる始末。
毎日のように何時間も恫喝され、営業後も深夜まで金を払えと脅され続け、最終的にはうつ病になりましたと診断され出社をせず。
入社から1年1ヶ月で、やっと退職できることに。

その後は製造業に戻り、現在へ

小幡氏結婚式でガッキーと

退職後は労働基準監督署、弁護士に相談に行き100万円は支払われましたが、労働基準監督署もこれ以上は動けないと、残業代などは支払われず。
ひどい職場からは脱出できたので、良しとして、再度製造業に戻り、設計の仕事に。
給料もちゃんと払われる、有給も取れる、ボーナスも出るという眩しいくらいにホワイトな会社に転職できました。
方々から借りまくっていたお金もひとつにまとめることが出来、支払いの管理もしっかり出来るように。
休みの日や、夜は夫婦共にバイトに行ったりして、中々休みはありませんが、支払いも滞ることなく出来ています。

最後に

妻にお礼の花束@藤原商店

本当に思うことはこんな私によく愛想もつかさず一緒にいてくれている妻に本当に感謝です。
離婚届だったりも3度ほど持ってくるだけで、提出はせず、歯をひたすらに食いしばり頑張ってくれています。
本当に色々有りましたが、19から横にいてくれています。
もう人生の半分を一緒にいる歳になりましたが、これからも横にいてくれたらと切に願って感謝して過ごしています。
生活も大分安定してきたこともあり、その感謝の意も込めて「夫婦会」というのを定期的に開催し、夫婦で地元のお店に飲みに出ています。
お陰で、夫婦仲もよくなり、ケンカもほとんどなくなり、子供も落ち着いてきて素直な笑顔が出るようになりました。
中々親が一緒にいられないにもかかわらず、とても素直に健やかに育ってくれています。
やっぱり夫婦仲が良くないと子供は笑顔にならないし、大人になって結婚したいとも思えない。
世の中の子供にそんな思いはさせたくないし、少しでも仲の良い夫婦が増えてくれたらと、我が家の夫婦会についてBLOGで発信するようにもなりました。
こちら↓

https://matsumoto-maru.com

また、今までの借金の経験から少しでも知識なりをシェアできたらと、本BLOGもはじめた次第です。

こんな私ですら借金を大分減らすことが出来ています。(妻の力がかなりでかいですが)
借金で苦労する、毎月の支払日の半端ないストレス、辛い大変な気持ちが凄くよくわかるので、本BLOGが少しでも力づけになったり、手助けになればと思っています。

理解し難いこと、わからないことあったらどんどん、ご指摘ください。
片田舎の1サラリーマン、噛み付いたりしないので、ゆっくり訪問していってください。

家族写真@三重鮨